夏空 32


「だから、中学を卒業したら働きに出るんだって言ったんだよ。誰の力も借りず、自分の手で幸せになってやるんだ、ってね」

 幸せになりたい、それが香織の口癖だったそうだ。

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 ――私はなにも持ってない。温かい家庭も、広くて綺麗な家も、なにも。

 ――だから絶対に自分の手で手に入れてやるんだ。就職して、お金を手に入れて。

 ――必ず、幸せになってやるんだ。

 正直、あたしにはいまいちピンとこない話だった。

 香織の言う『幸せ』というものが、どうにもあたしには腑に落ちないのだ。

 幸せってそういうものだろうか、という疑問がどうしても頭に浮かんでしまうのである。

 もちろん、それはあたしがまっとうな家で生まれ育ち、豊かで便利な時代に生きているからこそ、そう思えるのかもしれないが……。

 徳子さんが言った。

「だからなのかね。あの子はよく朝早くから、あたしと一緒に狗堂山に登って朝日を眺めてたよ」
「狗堂山に? どうしてですか?」
「言い伝えがあるんだよ。あそこで日の出を眺めると幸せになれるってね。最近じゃそれに尾ひれがついて、あの山を恋人と一緒に登るとふたりは幸せになれるなんて話になってるみたいだけどね」
「ああ、それでカップルが登ってたのか」

 ようやく納得である。

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「おばあちゃんも、その言い伝えが目当てで山に登ってたんですかー?」

 弥生が訊いた。徳子さんは苦笑して首を振った。

「とんでもない。あたしゃ単にあの山に登るのが好きなだけさ。なにしろ、もう五十年も毎日欠かさず登っとるんだからな」
「そう言えば美知子さんもそう言ってましたけど……五十年て、すごいですね」

 あたしは言った。毎日欠かさずということは、雨の日も雪の日も登ったということになる。いくら慣れた山でも危なくないだろうか。

「大したことないよ。なにせ子供のころから登ってるんだからねえ。あそこで日の出を拝まないとあたしの朝は始まらないのさ。おかげで、今じゃ日の出の時間には必ずあの山の頂上に着くように、身体が出来あがっちまったよ」
「すごいなぁ……」

 弥生が感心した声をあげた。

 なにしろ弥生はついさっき、その大したことのない山にチャレンジして、この有様になったばかりである。羨ましがるのも無理はない。

 が、それはともかく、せっかく狗堂山の話題が出たのだから、このチャンスにあのことも訊いておかなければなるまい。

「そう言えば、おばあちゃんがあの山で捨て子を拾ったって聞いたんですけど……」
「ああ、そう、そんなこともあったねえ。確か、今から十六年ぐらい前だ。頂上にあるベンチの上にね、女の子の赤ん坊が捨てられてたのさ。びっくりしたよ」

 弥生のことだ。布団の上で弥生の表情が硬くなった。たぶん、あたしもだ。

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