夏空 42


「言われてみればね、確かにそんな兆候は昔からあったのよ。あの子、話をしているとときどき言葉がつかえたりね、おかしくなるときがあったわ。でも、頻繁にあったわけじゃなかったから、本人も気づかなかったのよ。もう何年も前から腫瘍は出来ていたらしいんだけどね。……父親の暴力が原因じゃないかって話だったけど……」

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 そう言えば、宿の女将さんがそんなことを言っていた気がする。そのときからすでに症状は出ていたということか。

 だとすると、確かに発覚したときにはもう、手遅れだったのかもしれない。

「だからね、退院って言っても、病院を変わるための一時的なものでしかなかったのよ。そのときにはもう、香織ちゃんの命は半年も残っていなかったからね」

 あたしは隣の弥生を気にした。今の弥生とまったく同じ境遇だ。

 そのとき、葉山香織はどうしたのだろう。

 子供は……。

「私は、子供はどうするの、ってあの子に訊いたの」

 独り言のように、陽子さんが言った。

「するとあの子はね、信頼出来る親戚に預けるって答えたわ。このまま私が死んだら、私の父親が引き取ることになってしまうかもしれないからって。今からこの子を預けに行くって……この子だけでも幸せにしなきゃって、そう言って姿を消したわ。あたしが香織ちゃんを見たのはそれが最後よ」

 まさか、それは葉山香織が弥生を捨てた日の出来事なのか。

「それは、何年前の何月ごろのことだか覚えてますか? 日付は?」

 あたしは興奮して尋ねた。

「十六年前の八月十九日よ。お祭りが終わったあとだったから、よく覚えているわ」

 間違いない。弥生が狗堂山で拾われたのはその翌朝、八月二十日の早朝のことだ。

 葉山香織はこの店で陽子さんと別れた後、そのまま狗堂山に登ったのだ。

 弥生を捨てるために。

「その半年後に、香織ちゃんは病院で亡くなったわ。寂しそうな死に顔のままね……あたしが香織ちゃんのことについて知っているのはこれだけよ。あの赤ちゃんの行方は誰にも分からなかったわ」

 陽子さんはそう言って話を打ち切った。

 これもあとになって気づいた。

 たぶん陽子さんは、弥生があのときの赤ちゃんだと薄々気づいていたのだ。

 だからあたしたちに葉山香織の話を聞かせてくれたのだ。

 だけどそのときのあたしたちには、そんなことにまで気を回す余裕はなかった。

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 店を出てしばらく、あたしたちは無言で帰り道を歩いた。

 時刻は午後六時ごろだが、まだ日は沈んでいない。しかし、空はどんよりと曇り、空気も湿っていた。急いで帰らないと雨が降ってしまう。

 と、繁華街を抜け、駅のバス停へと向かう途中で、唐突に弥生が足を止めた。

「弥生?」

 振り返ると、弥生は俯いていた。

 小さな肩が、かすかに震えていた。

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