夏空 54


 それから、あたしたちは手を繋いで宿に戻った。

スポンサーリンク

 女将の美知子さんはあたしたちの帰りが遅いのでずいぶんと心配していたが、あたしたちの顔を見るなり優しく笑って迎え入れてくれた。

 ただ、あたしが明日帰ることを伝えると、寂しそうに、

「そう。またいつでも来てね」

 と言ってくれた。

 あたしたちは、きっともう二度と来ることはないんだろうなと思いつつ、頷いた。

 美知子さんの笑顔を見るのも、明日が最後だ。

 手早くお風呂に入り、室内用の浴衣に着替えて、布団に入った。

 この白海で過ごす最後の夜だ。

 今日は疲れているので、きっとぐっすり眠れるだろう。

 だが、気になることがひとつだけある。

 弥生が、さっきからあまり喋らないのだ。

 黙っているというより、何かを言おうとして、ためらっているという感じだ。

 それに、ちらちらと窓の外を気にしているようにも見える。

 それも、狗堂山のある方の窓を。

スポンサーリンク

「どうしたのよ、弥生。なにか言いたいことでもあるの?」

 弥生は驚いた顔であたしを見た。図星か。

「言いたいことがあるなら、ハッキリ言いなさいよ。隠しごとはナシにしてって、さっき言ったばかりじゃない」
「うん……」

 弥生の雰囲気から察するに、隠しごとをしているという感じではなかったのだが、あえて言いやすいようにこう言っておいた。

 強いて言うなら、わがままを言おうとしてためらっているときの顔によく似ている。

 弥生は思いきったように顔を上げた。

「あのな、美代ちゃん。もうひとつだけわがまま言うてもええかな?」

 やっぱり、おねだりモードだったか。

「なによ、やっぱり帰るのはもう少しあとにしようとか?」
「ううん、そうやなくて……」
「じゃあなに?」
「……あのな、美代ちゃん。これはホンマにホンマのウチの最後のわがままや。ちょっとトンデモないこと言うけど、出来れば聞いて欲しいねん」
「う、うん」

 あたしは思わず身構えた。

 一体、どんなおねだりをするつもりなんだろう。

「自分でもメチャクチャなお願いやと思うんやけど、それでもええか?」
「う、うん……」

 あたしはついさっき、「たとえ世界中を敵に回しても、あんたのわがままに付き合ってあげる」などという大見栄を切ってしまったばかりなので、「内容にもよるわね」という予防線が張れなくなってしまい、ほんのちょっとだけ後悔した。

「一体、なんなのよ。最後のわがままって」
「はあ? とか、ええっ? とか言うのもナシやで」
「う、うん」
「そんなんダメ! とか、やっぱナシ! とかいうのもナシやで!」
「分かったから、早く言いなさいってば」
「あのな、ウチ……」

 弥生は窓の外にそびえる狗堂山を指差して言った。

「ウチ、あの山に登りたいねん。それも今日、これから、日の出までに!」
「え?」

 あたしは、ポカンと口を開き、それから、

「ええええええっ? そんなのダメよ!」

 と速攻で約束を破り、叫んだ。

スポンサーリンク

前へ 次へ 作品一覧へ

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA