夏空 67

 弥生の体調が悪化し始めたのは、九月の半ばを過ぎた辺りからだった。

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 看護婦さんから連絡を受け、病院に行くと、弥生はベッドの上で人工呼吸器をつけて横たわっていた。

「弥生……」

 呼びかけると、弥生は起きていたらしく、弱弱しい動きで首を動かし、あたしの方を振り向いた。

 力のない、まどろんでいるような両目が、あたしを見た瞬間に、安心したように細められる。

笑ったのだ。

 弥生は呼吸器のなかで、小さく唇を動かした。

「え? なに? 苦しいの?」

 あたしは顔を近づけ、彼女の言葉を拾おうと集中した。

「……上手く、喋れへん」
「弥生……」
「ボケれないと辛い」
「あんたね」

 こんなときまで……いや、こんなときだからだろうか。

 しかし、今度ばかりはもう、冗談を言ったからといって安心は出来なかった。

「弥生、辛いとこない? して欲しいことがあったら何でも言うのよ」
「……して」
「え?」
「学校の、話、して」
「学校の話って……また?」

 弥生は小さく頷いた。

「しょうがないわね」

 あたしは仕方なく、いつものようにその日学校であった出来事を面白おかしく弥生に話して聞かせた。

 弥生は一言も喋らずにそれを聞いていた。

 傍らには、あの旅の日記帳が置いてあった。

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「それでさ、そのあと工藤のやつが……」

 そこまで話したとき、あたしは弥生がいつの間にか目を瞑っていることに気がついた。

 どうやら眠ったようだ。

 人工呼吸器越しの寝息の音が、静かに室内に響いている。

 弥生は今、たくさんの機械に繋がれている。

 ほんの一月前、一緒に白海の町を旅した弥生とは別人に見えるほど痩せて、浴衣ではなく病院着に身を包んでいる。 

 命が抜け落ちているのだ。

 あたしは、なんだか歯がゆい気持ちで、毎日少しずつ衰弱していく弥生を見ている。

 どうにかしてあげたいのに、どうにも出来ない。

 力になってあげたいのに、力になってあげることが出来ない。 

 命は平等ではない。

 無限ではない。

 当たり前のことなのに、いや、当たり前のことだからこそ、やり切れなくて、悔しい。

「弥生」

 あたしは眠っている弥生に呼びかけた。

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