夏空 68

「また、明日も来るね」

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 そのときだった。

 眠っていたはずの弥生の目が、ほんの少しだけ、開いた。

 あたしを見て、人工呼吸器のなかで、小さな口がゆっくりと形を変える。声は出ていなかった。

 ア、リ、ガ、ト、ウ。

 そして弥生は、ゆっくりと目を細めて、子供のような顔で笑った。

「バカ、感謝なんかいらないわよ。あたしが来たくて来てるんだから」

 あたしは弥生の髪をなでた。

 何度も、何度も。

 弥生は心地よさそうに目を閉じて、再び眠った。

 それを確認してから、あたしは静かに病室をあとにした。

「あら、美代ちゃん」
「あ、佐山さん」

 廊下に出ると、弥生の担当の女性看護師である佐山さんと遭遇した。

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 若い看護師の佐山さんは優しげな笑みを浮かべて、

「今日も弥生ちゃんのお見舞い? 弥生ちゃん、喜んでたでしょう?」
「はい。それで、あの――」

 あたしは、前々から訊こうと思っていたけど勇気がなくて訊けなかったことを、思いきって佐山さんに尋ねた。
「弥生って、まだ大丈夫なんですよね。前に聞いた話じゃ、今年いっぱいは生きられるって……」

 あたしの問いを聞くと、佐山さんはとても悲しそうな顔をして、
「うん……本当は、そうだったんだけど……」

 と言った。

 その一言であたしは悟った。

 あの旅行のせいだ。

 あの旅行で無理をしたせいで、弥生の寿命は短くなってしまったのだ。

 だとしたら、弥生が今あんなに苦しんでいるのは、あたしのせいだ。

 あたしが、協力さえしなければ……。

「あなたの責任じゃないわ、美代ちゃん」

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 あたしの考えを察したのか、佐山さんが労るように言った。
「弥生ちゃんから聞いたわ。弥生ちゃんは自分の意志で、自分の残りの人生の過ごし方を選んだんでしょう? だから、決して誰のせいでもないわ。ひとには、自分の生き方を選ぶ権利があるんだもの」
「……………」
「それにね、医学的に言ったら、弥生ちゃんの身体で、あまり薬を飲まずに一月も元気に歩き回れたなんて、ほとんど奇跡なのよ。先生も、本当に驚いてたわ。それはきっと、弥生ちゃんが本当に楽しい時間を過ごしていたという証拠なのよ。もしかしたら、なにもせずに入院していたときの方が体調は悪くなっていたかもしれない。美代ちゃんは、弥生ちゃんが元気で幸せな時間を過ごすお手伝いをしただけなのよ。だから、そんな風に自分を責めないで。そんなこと、弥生ちゃんだって望んでいないわ」
「……はい」

 それでも正直に言って、今でもあの旅をしたことに後悔がまったくないと言ったら嘘になる。

 何年経っても、ふと、罪悪感のようなものに苛まれることはある。

 だけどそれらを打ち消してあまりある弥生との思い出が、あたしを支えてくれているのだ。

「また、弥生ちゃんに会いに来てあげて」

 佐山さんはそう言って、優しくあたしに笑いかけてくれた。

 次の日から、弥生はまったく喋らなくなった。

 ほとんどの時間を眠っていて、たまに起きていても、苦しそうに胸を上下させながら天井を見つめているだけになった。

 ただ、あたしが部屋に入ると、ゆっくりと目だけでこちらを向いて、それからほんの少しだけ、嬉しそうに笑うのだ。

 あたしももう学校での面白い話を話すことはなくなり、ただ弥生のそばに座って、とりとめのないことを話しかけるだけになった。

「弥生、今日ね、学校の花壇に花が咲いてたよ」

 とか、

「お隣の山田さんがさ、犬を飼い始めてね。それがとってもかわいいのよ」

 とか、

「今度一緒になでに行こうね」

 などと、一方的に話しかけた。

 弥生はまどろむような目で、それでも楽しそうに、あたしの話を聞いていた。

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