夏空 70


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 それからのことはよく覚えていない。

 あたしの父が医師と相談して葬儀会社のひとと連絡を取り、矢継ぎ早に葬儀の準備を進めていった。

 弥生が病院から運び出され、車に乗せられてどこかへ連れて行かれた。

 あたしはそれに抵抗するでもなく、茫然とその光景を眺めていた。

 父や母や看護師の佐山さんが話しかけてきたが、なにを言っているのかまったく分からなかった。

 あたしのなかでなにかが終わった。そんな気がしていた。

 母と共に家に戻ってからも、なにがなんだか分からないまま、ベッドの上で横になっていた。

 弥生との思い出を辿ろうとしても、頭がごちゃごちゃになっていて、何も思い出せなかった。

 ただ、戻ってきた父が、葬儀は明後日に決まったと言っていたことだけが、かろうじて理解できた。明日は葬儀会社が用意してくれた家に泊まり、そこで一足先に身内だけのお別れを済ます、とも。

 そして翌日の夜、あたしは両親とともに葬儀会場の近くにある小さな一軒家に行き、そこで再び弥生と対面した。

 弥生は小さな箱のなかで、花に囲まれて横たわっていた。

 薄く化粧をしている。弥生が化粧をしているところなんて初めて見た。とても綺麗だった。

 だけどそれ以上に意外だったのは、弥生の衣服だった。

 弥生は水色の、ひまわりの花模様の浴衣を着ていた。

 それはあの祭りの日に着ていた、あたしのプレゼントの浴衣だった。

「弥生さんのご遺言だと、看護師の佐山さんという方が教えてくださいまして」

 葬儀会社のひとがそう説明してくれた。あたしの喉の奥がまた痛くなった。

 それから、優しそうなお坊さんがやってきて、よく分からないお話と読経をして去っていった。

「明日、棺を閉める前に、故人の思い出の品などがありましたら、今の内にどうぞご一緒に」

 と葬儀会社のひとは言ったが、弥生はまったくと言っていいほど物に執着しない性格だったので、なかに入れるほどの思い出の品なんてなにもなかった。

 だから、代わりにあの、あたしが白海で使った大学ノートを棺に入れることにした。

 弥生のノートは葬儀のドタバタで行方不明になっていたし、あたしも探すほどの余裕がなかったからだ。

 だからせめて、あたしが描きためた白海の思い出を、一緒に連れて行ってもらおうと思ったのだ。

 すべての儀式が終わると、あとは両親とともに二階の寝室で眠るだけになった。

 だけどあたしは、部屋をあとにしようとする父と母に言った。

「ここにいさせて。弥生が寂しがるといけないから」

 もちろん嘘だ。本当は、あたしが弥生のそばにいたいだけだった。

 あたしは、弱い。

 弥生を支えていたのではなく、弥生に支えられていたのだ。

 だから、ふんぎりをつけるためにも、今夜は弥生のそばにいたかった。

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「そうか」

 父は静かに、了承してくれた。

「風邪引かないようにね」

母も目頭を押さえながら、頷いてくれた。

それからあたしは、弥生と最後の夜を過ごすことになった。

 と言っても、なにをするでもない。

 ただ弥生の棺桶の前で、膝を抱えて座っていただけだ。

 仏壇に飾られている弥生の遺影を、無言で眺めていただけだ。

 部屋の灯りが半分消えていて、薄暗い。だけど怖くもないし、悲しくもない。寂しくもないし、辛くもない。心はとうに疲弊し麻痺してしまっていた。

 ただ時間だけが過ぎていく。
「ねえ、弥生」

 どれぐらいそうして過ごしたときだっただろう。

 あたしは何気なく遺影の弥生に語りかけた。

「あんたは、本当に幸せだったの?」

 狗堂山を登っていたときはあんなに自信を持っていたのに、今ではその自信も揺らいでしまった。

 そのときだった。部屋の扉を誰かがノックした。

「美代、起きてるか?」
「お父さん」

 それはあたしの父だった。

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